オープンダイアローグ、という治療法をご存知でしょうか?
フィンランドで統合失調症の治療として、1980年代から実績を上げている方法で、オープンダイアローグは直訳で「開かれた対話」という意味です。
この本の内容をまとめるのは非常に難しいのでものすごくざっくりといいますと、
本人を含めた本人の治療方針を話すMTGが精神病関連の治療に役立つ
ということ。
もうちょっとちゃんとしたザックリ感ではこちらのブログが良いと思います。
特異なのはその場合目的は対話そのものであり、治癒はその副産物としてもたらされ、1回のみのミーティングで治癒という副産物に恵まれることもあるといいます。この対話のルールで最も大切なのは応答することで、誰の発言に対しても「なかったこと」にはしないことです。その応答は指示的なものであってはならず「開かれた対話」であることが必要とされます。
(中略)
「自由に話し合う」というやり方で、お互いの立場を理解して意見の対立を避けるように話をする、というものとはオープンダイアローグは異なっています。対立は不毛な争いにすぎない、ということはこれまでの基盤への疑問を棚上げになってしてしまうのではないでしょうか。
私はこの治療法を知った時から、
これはアオにきっといい!
と直感しており、やりたくて仕方がありませんでした。
しかし精神科の指導なく、カウンセラーの同席なく、母親がガルガル状態であり、父親がASD受動型傾向である家庭内で実践するには微妙だと思い、踏みとどまっていました。
なお、この治療法については、それなりのルールがありますが、何よりも
「この対話に意味がある」と感じるメンバーが出席していること
こそ重要なのではないかと思います。
つまり、直感的にこの治療法を良い、と思えること。
治療かどうかによらず、面談やミーティングなどでも「開かれた対話」の経験を持つメンバーの同席こそが必須であると個人的に感じています。
両親にその経験があれば家庭内でもできるかもしれないが、そうでなければ適切なファシリテーターとなりうるカウンセラーや中立なネットワークメンバーの在籍が不可欠でしょう。
私と夫は「開かれた対話」経験を持っています。
コングを鳴らすぜ!夫婦泥仕合
先日出した10週目まとめにおいて、躾の見直しについて書きました。
うっかり寝かしてしまったのですがこれを書いていたのは金曜日です。
金土日、夫と話し合いの中からもやもやとしたものが発掘され、アオの前で、冷静な泥仕合が行われました。
犬も食わない話はまとめると大変シンプル。
ママが躾のために言っていること、やってることをパパが手助けして甘やかしてママがただうるさい人になってる。子供にママを馬鹿にさせているのはパパです。7歳として扱ってほしい。
ママが朝起きないのがほんと不満で文句言ってるみたいよ。なんで起きられないの?病気なの?
えー、不登校で昼夜逆転というのはよく聞く話ですが…うちでは逆転しているのはママです。はい。すみません。この睡眠の話はまたどこかで書きます。
音としては静かなもんで、喧嘩口調ではありませんでしたが、まぁ、夫婦喧嘩ですよね。途切れながら、30分くらいは続いていました。
アオは傍で、そうだそうだ!とか言いながら、たまに聞いてない振りしながら、しっかり聞いていました。
結果どうなったか。
学校で、勉強できるようになりました。
個別学習ですが、先生とルールを守った学習ができたのは大いなる一歩です!
彼の中でどう解釈したのかわかりませんが、この静かな泥仕合の日曜日から声を荒げて叱るようなことがほとんど起きていません。
おびえて、ストレスがかかって、というわけでもありません。
むしろ新しくできるようになったことに自信を感じ、ハレバレとした様子が見られます。
声を上げて叱るようなことの多くが試し行動が行き過ぎてしまった場合、だと思っています。つまり親がどこまでしてくれるのか、わがままが通るのか、試さなくなったということ。
結果としてオープンダイアローグに近い現象が起こったのだろうと思っています。
夫婦喧嘩だけれども。
夫の尊重できるところは、(興味のあることは)人の話を聞いて学べるところです。このため私もリフレクトを恐れず話すことができます。
結果的にはお互い、それなりに対応しましょう、という形で対等に話が終わりました。
…ちょっと早く起きるようにしました。
本人の状態を本人の前で話すことの失敗例
夫婦間で本人の状況を本人の目の前で話し合うことは、これまで極力避けてきました。
理由として、私が他者(精神科医やカウンセラー)に話すときに激しい抵抗感があること、彼が半引きこもりになったきっかけがこれを引き金として起きたことです。
半引きこもりになったきっかけ
起こったのは同じようなことでも、メンバーが異なりファシリテーターが不在の状況では致命的な状況を引き起こすことがあります。
あれはアオがまだ前の学校に給食くらいは行けていたころの話です。
所要でどうしてもアオを長時間お留守番させなければならず、私の両親に付き添いを頼みました。アオはおじいちゃんおばあちゃんが好きでした。しかしどうしてもマウントがとりたくて仕方ない、普通の時にはいいけれど、トラブルこそ余計なことをする人たちですから、くれぐれも頼みました。
学校の話はしないでくれ
何かを強制するようなことはしないでくれ
たった2時間これを我慢できず、さらには帰宅後子供の目の前で根掘り葉掘り私を問いただすこともやめず、何度も静止するのに何度も繰り返しました。
「お前が心配、お前の躾のせい、お前がもっと頑張らなあかん。タイムテーブルを作ってちゃんと一日中面倒を見ろ。勉強させろ、脳が死ぬぞ。部屋を片付けてきちんと生活しろ。旦那は何してんねん。お前が心配。」(※お前=私)
どうしてこんな人たちを頼りにしてしまったのか、今でも後悔が止まりません。
次の日から、アオは学校どころか公園にも行けなくなりました。
青白い顔で、ぐったりして、何もしたくないという日が続きました。
そこに光明のように現れたのがマインクラフトでした。
私は溺れる者がつかんだ藁を差し出しました。
失敗のポイント
ここでの大きな間違いは、一方の話は無視され、一方の話は絶対の正として聞く耳を持たないことです。対等でなく、「開かれて」いない。
なんせ権威に弱い老人ですから、「専門家」がいれば違ったでしょう。
ええ、もう嫌味と悪口だらけですけど、もういい。むしろよく文字にするところまで落ち着きました。
第3者がいることの重要性
ちゃんとしたオープンダイアログをやってみたい。
アオは「認知のゆがみ」がみられると、先日の精神科の受診で指摘がありました。
例えば
- 書き方は、お手本のように素晴らしくきれいでなければいけない
- みんな学校が楽しくてしかたない。楽しくないのは僕だけ。
- 外に出ると必ずこけるから外に出たくない。
など。
これらは、どんなに母親が一人で「そんなことないよ」といってもだめなんですよね。
- ママもパパも字汚いよ? → ママはぐうたらなだけ (パパはスルー)
- 何百人もいるのに、みんな好きでも得意でもないよ。 → でも僕ほどじゃない
- 今日はこけなかったよね? → たまたま。でも暑かったし。
なんなら、夫婦二人でそんなことないよ、といってもやっぱりだめ。
でも彼が見知ってるけれども少し遠い人、例えばカウンセラーさん、先生、私の友人で彼を昔から知ってる人、保育園時代の先生や友達、そういう人が、一緒にいる場で同じことを言ったら、彼の中に認知されるでしょう。これはもはや直感です。
折を見て、精神科の先生にも相談してみたいと思います。