小1の5月に不登校になった息子アオの、これまでの軌跡をまとめます。
保育園での生活
共働きだったため、アオは1歳児から保育園でお世話になっていました。とても面倒見の良い公立保育園で、こちらには本当にお世話になりました!
まとめてみて、いくつか、あー、この時にちゃんと考えてればな、対応して居たらなと思うことがいくつもあります。後日ところどころ特記記事にしたいと思います。
1歳児
育休の関係で初日から慣らし保育なし、初日からフルタイムで開始でしたが、泣いたものほぼ初日だけ、ご飯もパクパク食べてよく眠り、送りのパパともあっさりバイバイ。むしろ引き取り時に泣いて泣いておうちに帰る説得にご協力いただくという毎日でした。
ちょこまかよく動き、靴下をはくなどの自立は遅れ気味、おもちゃの取り合い等で噛んだり噛まれたりと手はかかる子ではありましたがまだ1歳児ということもあり、「自分の意志がをはっきり持ってる子なんですね、子供らしくかわいい」という温かい保育で見守っていただきました。
1歳児、1歳半歯科検診はすべて問題なしでスルー。
2歳児
2歳児の後半から、「切り替えが下手」と指摘されるようになりました。
外遊びからなかなか帰ってこられず、戻る順番を一番最後にしてもらって、年長の子がまだ遊んでいるときなどはそれにも混ぜてもらって、それでも戻れないで大泣きしてしまう。着替えなどの自立も遅れが顕著になってきていました。
それでも園では「障害を持っている」というような認識でははなかったようで、あくまで「我が強い」程度の個性として、支援していただいていました。
モモを妊娠中で私の体調が悪く、自宅ではテレビを見ている隙に無理くり着替えさせたり、困難なことを避けて手をまわしてしまうほうが楽という育児になっていました。
本人の3歳児検診にも上のことは伝えましたが結局のところ園と保護者で対応はできていたので「困ってない」と言ったように思います。で、スルー。
3歳児(年少)
モモが生まれて育休中初めて行き渋りが出始めました。行くときはあっさり行くのに、渋るときは本当に渋る。とはいえ「ママと妹が自宅にいるのに何で!俺も!」なのだろうと理解できることもあり、特に用事のない日をあらかじめ決めて休ませて一緒に遊んだり、情緒の安定に努めましたが、こちらの都合には合わせてくれないので大変でした。ようやく連れて行って大泣きして結局預けられないで自宅に戻るようなこともありました。
遅れている自立活動を頑張ろうと、着替えを自分でさせるようにと「しつけ」を試みましたが、大泣きが続き、なだめても叱っても絵カードを使ってもうまくいかず、ひたすら「ママが悪い!」と泣き続ける日々。正直言って虐待寸前か、入ってたかもと思います。いなくても耳鳴りがするようになり、育児に困難を感じました。
発達の検診が始まったのは、3歳児初旬のモモの4か月検診の時でした。
全く保育園に行かない様子だったので、しぶしぶ連れて行ったモモの検診で、保健所の中をぐるぐるぐるぐる走り回り、保健師さんの優しい言い方での指示も、母のぶち切れも聞けずにいる様子から「モモちゃんは大丈夫ね、それでお兄ちゃんだけど…」と切り出され、改めて保健所にお呼び出しが決まりました。2か月後に…それから次の検診を受けたのはもう、4歳児になる手前でした。
ちなみにオムツは4歳手前で外れました。長かった…。外れたら外れたで夜もあっさり取れて、その後排泄関係では困りませんでした。
4歳児(年中)
3歳児末に発達検査も受け、凸凹が顕著にみられること、多動と衝動性により、今後生活が困難になるかもしれないから、軽減させるために療育をしたほうがいいといわれました。ただ生活に困ることが少なく、軽度との判定。1か月から2か月の間に2時間、療育を受けることになりました。
園は、「え、この程度で?」という認識だったようです。結構ほかの子も含めて、騒々しいクラスだったんですよね…。年齢的に喧嘩で手が出ることは見過ごせないようになっていましたが、アオはちょっかいかけられて手が出てしまうタイプ。激しいちょっかいをかけてくるタイプの子がいてこれらの子とはよくもめていましたが「お互い様」の範疇と認識されていました。
「切り替え下手」「うまくいかないことでのパニック」はこの時からだんだん他の子との差異がみられていました。ただ残念なことにパパもママにも覚えがあり、あー、わかるよーとスルー…。
ここまで、絵や工作はやったりやらなかったりが続きましたが、折り紙等得意な工作も出てきて、だんだんと取り組むようになりました。絵はだいぶ残念な出来でしたが、取り組むようになっただけでうれしかったです。
5歳児(年長)
療育は継続ですがだんだんと期間が延びて、2か月かそれ以上に1回になっていました。
公立の療育施設だったのでですが、「予約がいっぱいな状態で、アオ君は生活に困らないレベルなので優先度が低い」と言われました。
実際このころには、生活も落ち着いてきました。着替えやカバンの準備もできて身の回りの生活に困難がなく、パニック的な状況、謝れない等しばしばありましたが、夏ごろからはそれも少なくなり、運動会や劇の練習、ドッチボール大会の練習、みんなで大迷路を作るなどイベントにも積極的に参加しました。LaQ博士との称号もいただいて褒められる機会もあり、座り方や指示行動などはふわふわしていたもののできていて、大きなトラブルが起こらなくなりました。
地域で企画されている学校見学でも落ち着いて書き取りのプリントをするなど、「逸脱した」様子は聞かれませんでした。
WISK-Ⅳでは相変わらず凸凹がみられましたが、保育所等訪問支援なども通して療育先では「就学相談がいらないレベル」とされ、そのまま普通級に進学することとなりました。
ふりかえり
ずっと元気で騒がしいけど、「男の子ってこんなもん」を逸脱しない範囲と思っていました。正直。大泣きも、先生もほかの子も慣れていたんでしょうね。冷静に考えると、ほかの子はこんな大泣きなんてしていなかったけど、それを気づかないくらい。
トラブルがあった際や、全く指示行動が通らない時など、ほかの保護者の方に発達気味であることを告白することもありましたが、「え、そうなの?全然そう見えない」といった反応でした。気の合う子も多くてよく遊び、「アオ君が好き♪」票も1.5票ほど入りました(←母として一番うれしい事例)。
トラブルも多いけど、褒められることも多い、充実した楽しい時間を過ごしました。
母も先生たちに助けられました。毎日のように、「大丈夫よお母さん、お母さん頑張ってるわ!」と褒められ慰められ、手助けしていただきました。
5歳児の対応は今となっては本当に間違いでした。
成長により発達障害の症状が抑えられてきたことは確かだと思います。
しかし以上に、慣れ親しんだ保育園と、ずっと一緒のお友達による環境の成熟による成果だったことが後日明らかになります。
長い記事でしたが読んでいただきありがとうございます!
続きます。
LaQ博士の必需品たち